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 これは、電話というメディアを使う手法の大きな変化です。われわれ戦中派の世代は、電話がない時代から、電話が鳴ると何か良くない知らせではと考える時代、女房や子供の長話にいらいらする時代、一人一人が電話をもつ時代などを経てきたわけですが、電話が鳴っても出なくて良いという社会的行動は、ある意味ではメディアとしての電話にとって最も根本的な変化といえるのではないでしょうか。


i-Phone 3GSの発売が話題だ。今後のケータイ世界はどうなるのだろう。

1:アクセス回線が高速化して、どんどんネットワークに接続するようになる。

2:大容量のメモリーが搭載され、コンピュータのように使われるようになる。

という、二つの道しかないのだろうか。第3の道は、i-Tunesかもしれないと思っている。

ケータイで、最も重要なのは、情報へのアクセサビリティだと思う。情報の見つけやすさと、それに到達するまでの時間である。ケータイでは、この時間の重要性が、デスクトップのケースより増大する。さて、この問題、アクセス回線が高速化すれば良いというわけではない。問題は、ネットにつながるまでの時間である。ということで、第2の道の可能性も残っている。自宅のコンピュータの情報を全て携帯するのだ。しかし、これはさすがに重すぎるかもしれない。

そこで、第3の道、i-Tunesである。その意味は、必要な情報だけ、事前にケータイにインストールするという仕組みだ。スケジュールにあわせ、必要な情報を、毎日、ネットと自分のコンピュータから、ケータイにインストールするのだ。i-Tunesの特徴は、携帯機とネットの総合システムである。この仕組みを音楽だけで使うのはもったいない。

利用者は、寝る前にネットにつなぐと出かけるときには、必要な情報がケータイに入っている。外出すれば、想定外のことも起こる。その場合はネットにつなぐという手段が残っている。

 この発信者優先の世界に今、異変が起こりつつあります。携帯電話での発信者番号表示が常識化したからです。最近学生に聞くと、発信者が表示されない電話はもちろんのことのこと自分のデータベースに入っていない通話には、「出ない」というものがたくさんいます。つまり、受信者が発信者を選択する時代がやってきた[1-7]のです。どうしてこのようなことが社会的に常識化してきたのでしょうか。それは、いたずら電話・おれおれ詐欺など発信者優先の世界を悪用したものが多くなり、これに対する対抗手段と位置づけられているからでしょう。発信者が表示されない電話には出ないというものの多くが、女子学生であることからもそれはうかがえます。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、この場合は、悪貨が電話文化を変えたといえそうです。


 電話は、放送やテレビジョンのようなマスメディアの手段として発明されたものの、現在ではもっぱら二人の人が一対一で使うパーソナルメディアとして利用されています。しかし、現在の電話メディアはマスメディアと同じような性格も有しているのです。なぜなら、現在の電話は、受け手の意思が反映されにくい仕組みになっており、送り手優先という意味では、マスメディアと変わりありません。このことが、電話による「個」の生活空間への他者の介入を容易にしている面があることは否定できません。

 確かに実体としての物理的な他者の介入(訪問)は、電話の普及に伴うアポイントメントをとるという習慣により、緩和されました。しかし一方で、物理的な移動を伴わないだけアクセスが容易になり、その結果いたずら電話は論外としても、各種勧誘や深夜における電話など、「個」の生活空間へ遠慮のない侵入は、電話というメディアの問題点を浮き彫りにしています。

では、人工的な脳ではなく、人間の脳との組み合わせは可能でしょうか。単に身体の五感の延長として、視覚や聴覚を電気通信に置き換えるのではなく、脳という情報処理装置つきの五感を意識した総合的なメディアとして、ケータイを考えてみましょう。
嗅覚・味覚では、どうでしょうか。単純な拡張は難しそうです。臭い通信のようなことが、よくいわれますが、現実にはまだまだ難しい状況です。しかし、人工的な脳、つまり情報処理を使うと状況は少し変わります。人工的な脳とメディアとの組み合わせです。例えば、視覚の分野では可能となっているバーコードの読み込みや指紋認証などは、、人間では出来ない機能の付加と考えて良いでしょう。脳機能の拡張と捉えても良いと思います。

 前のBlogでは、送受信機としての人間の能力について述べました。人間の通信能力性能の判断は、エンジニアとして考えさせられるものがあります。単に工学的に考えると、電話のような音声とマルチメディアのような画像を送るのでは千倍もの性能差があることになります。とくに動画を送るのはたいへんなのです。ケータイのように電波を使うツールの場合、その条件はいっそう厳しくなります。当然コストにも跳ね返えります。
 そこで、まず、人間の送受信能力を強化したり、拡大したりするという立場から、ケータイを考えてみましょう。音声については、多くの人が取り上げているように、電話によるコミュニケーションの原点にあります。遠隔地との通信は、まさに聴覚の拡張です。視覚については、画像通信や、インターネットにより、最近その機能が大幅に拡大しています。テレビ電話や写真付きメールは、音声における聴覚の拡張と同様視覚の拡張として捉えることが出来ます。陰に隠れて見えないものを見せることも視覚の拡張(第6章参照)といえるでしょう。触覚は、着信音の代わりにバイブレータを使うことが一般化しており、既に使われているともいえるのですが、通信機能を使った新しい可能性もありそうです。以前学生が、「引っ張る電話」というのを考えたことがあります。電話線を引っ張ると相手側の電話線が引っ張られるというものです。恋人同士が、手を握り合っているシーンの遠隔化です。ケータイなら、ケータイを握りしめると、相手のケータイに伝送され、バイブレータを振動させたり、ケータイの形状が変わって相手にその感じが伝わるということができるかもしれません。
本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p35に収録

 人間を通信の受信機と考え、工学的に評価すると、視覚が最も優れています。可視光の帯域は一〇〇〇兆ヘルツ、一方、聴覚はわずか四〇〇〇ヘルツです。他の感覚の評価はなかなか難しいのですが、視覚にはかなわないと思われます。人間は、大部分の情報を視覚から獲得するというのもわかる気がします。
 ところが、送信機としての性能は音声の方が優れています。「目は口ほどにものをいう」という言葉は、使い方また状況によっては、目は口と同等の送信機能をもつことがあることをいっているのでしょう。それは、音声の優位さを認識している言葉ともいえます。音声は言葉という形で記号化されたのですが、動作の記号化は発達しなかったのです。それに換るものが文字だとすれば納得がいきます。
 確かに、文字による通信の効率(情報量/伝送容量)は極めて高いのです。ただしこの場合、人間の送信性能が十分でなくリアルタイム性が落ちます。電信、タイプライター、ワードプロセッサなどの特別の訓練を受けた人は、言葉と同じように使いこなしますが一般的ではありません。パソコン通信や電子メールが一般的になり、文字を書くように誰もがキーボードを自由に扱える日が来るのでしょうか。親指がさらに動作を速くして、ケータイメールを送信するのでしょうか。それとも音声認識が進歩して一般的に利用されるようになるのでしょうか。 
 動物には、この他、臭い付けでテリトリーを誇示したり、臭気ガスで防御したりするものがいますが、人間には、音声と動作の他の送信能力はないように思います。

本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p34に収録

  以前コマーシャルに「そうか、人間がマルチメディアなんだ」というコピーがありました。たしかにマルチメディアの代表は人間です。言葉という複雑な記号を瞬時に処理し、入出力します。高感度で広帯域な受信感度を誇る視覚ももっています。
  人間には五感(視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚)があります。これらはいわば受信機です。ケータイをはじめとするIT機器の役割は、これらの機能を拡張したり、補助したり、新しい機能を付加したりすることだと考えられます。目と耳の性能の違いについて、多様性の認知は視覚、筋書きの理解は聴覚だと養老孟司はいいます[1]。このことを別の言葉でいえば、目は空間を認知し、耳は時間を認知しやすいようにできているということでしょう。私は、五感は人間と環境とのインターフェイスと考えています。五感の主要な役割に、危機管理があります。聴覚は、常に電源の入った検出器といえるでしょう。耳には、目蓋(耳蓋?)がありません。外界に対して常に開かれた窓となっています。聴覚では、方向を明定しにくいのも、全方向に向かってアンテナが開いているからだということができます。これに対して、視覚は、対象物を詳細に観察するのに適しています。方向性もあります。生物の感覚は、環境の情報をとるためのものだと考えられます。その中でも、身の安全を守るセキュリティに関する情報は最も重要なものでしょう。まず、聴覚で一次情報を取得し、視覚で詳細を確かめるという役割分担をしていると考えたらどうでしょう(もっとも、人間以外の生物では、嗅覚が重要な役割を果たしていますし、鳥は地磁気を感じるといいます。人間と比べて、視覚・聴覚に頼る割合は低いかもしれません)。嗅覚は、人類にとっては、それほど大きな役割を果たしていません。危機管理から見れば、、聴覚の補助手段といったところです。使用シーンとしては、今のところ、食料に対するもののほかは、料理時の焦げたにおい、ガス漏れなどが頭に浮かびます。味覚は、体内に入れるものの危険性に対する判断といったところでしょうか。触覚は、物理的な直接接触が基本ですが、暑さ、涼しさ、寒さなどは、空気や電磁波を媒体としています。
参考文献
 1:[養老孟司「脳が読む」、法蔵社、1994]p137に以下の記述がある。
 脳でいえば、筋善きは「耳のもの」であり、多様性の認知は「目のもの」である。「絵解き」というくらいで、目には本来、筋書きはない。絵に筋書きがあれば、絵解きはもともと不要なのである。生まれつき耳の間こえない人たち、こうした人たちが、もっとも難渋することはなにか。それは因果関係の理解である。あるいは、疑問文という形式の理解である。

 本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p32に収録