人類は自分たちが最も進化した生物だと自認している。確かに人類は進化の最先端にいることは事実であろう。しかし、考えようによっては現存する生物は、それぞれ進化の最先端にいると考えられなくもない。進化という言葉からはなにやら「より良い」というニュアンスが伝わってくる。より良いとは、なにに対してより良いのであろうか。自分たちの子孫を残すことが「より良い」のならば、現存する生物はわれわれ人類の理解を超えたところで、「より良い」戦略を持っているのかもしれない。だからこそ、生き残れてきたのだという考えもあると思うからである。また、体の大きさを進化の根拠に求めれば鯨になるし、生存数では、微生物が最も進化しているということになってしまう。「脳」を話題にしたとき、初めて人類は進化のトップランナーになる。脳以外では、人類より進んだ機能をもっている生物は、いろいろいるようである。
 進化の根拠はいろいろな考え方がある。ここでは自分たちの子孫を残すことが「より良い」と考える。つまり進化の評価の基本となるものを「種の保存」に求める。生物は自分の子孫を後世に残す確率を上げるために進化する。自然を相手に、なにをもって「より良い」とするか。ある環境には対応できても、環境が変わればこれに対応できるとは限らない。あれほど、隆盛を極めた恐竜の絶滅は、このことを如実に物語っている。ただ、忘れてはならないのは、恐竜の時代は1億6000万年続いたということである。人類が出現してわずか300万年、恐竜は人類歴史の50倍は生き続けたことになる。この事実は、進化を考える時のタイムスケールの基準を与えるとともに、人類が永遠に生存する保証などどこにもないことを良く表わしている。
 したがって、生物の個々の変化に「良い」「悪い」と判定するのではなく、全体として、より環境変化に強く、自分の子孫を残す可能性を上げる手段を基準に進化を考えたい。生物における多様化は、対環境に対しての多様化と考えたい。多様な環境においてニッチを探しポジションを得るためには、自分も多様でなければならない。また、大きな環境変化において、自分の仲間を残すためには、危険分散のための多様化が有効である。多様化が子孫を後世に残す手段として有力であり、進化の基準の一つであることは間違いない[1]。
 その意味で文化の多様性は、人類の生存に不可欠だったのではないか。歴史を見ても消え去っていった民族は多い。自然や人工環境のさまざまな変化に対処し生き残ってきたのは、多様な文化の存在であったのではないだろうか。
 しかし、昨今の急激なグローバル化は、世界をモノトーンに染めつつある。その結果、多様な社会形態や文化の多様性保持を危うくしているのではないかと危惧の念を抱くのは私だけではないだろう。
文献1:[ダイソン、フリーマン「多様化世界」、鎮目恭夫訳、みすず書房、一九九〇/原著1988]の56頁に以下の記述がある。
宇宙の最古の始まり以来の発展は、対称性が次々に破れてきた歩みだとみなせる。宇宙はビッグ・バンの形で創造が始まるときには、完全な対称性をもち完全な混沌である。やがて温度がどんどん下がると、次々に対称性が破れ、ますます多様な構造が出現する。生命という現象もこの図絵に無理なく合致する。生命もまた対称性の破れである。まず始めに均一な海が何らかの仕方でさまざまな細胞、微生物、捕食動物と餌とに分化していった。やがて、均一な猿の集団が、さまざまな言語と文化、芸術と科学、宗教をもつように分化した。対称性が一つ破れるたびに、新しい水準の多様性と創造性が可能になる。もしかすると、われわれ の宇宙の本性と生命の本性は途方もないもので、この多様性の歩みには終りがないのかもしれない。

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