2011年11月アーカイブ

 人類は自分たちが最も進化した生物だと自認している。確かに人類は進化の最先端にいることは事実であろう。しかし、考えようによっては現存する生物は、それぞれ進化の最先端にいると考えられなくもない。進化という言葉からはなにやら「より良い」というニュアンスが伝わってくる。より良いとは、なにに対してより良いのであろうか。自分たちの子孫を残すことが「より良い」のならば、現存する生物はわれわれ人類の理解を超えたところで、「より良い」戦略を持っているのかもしれない。だからこそ、生き残れてきたのだという考えもあると思うからである。また、体の大きさを進化の根拠に求めれば鯨になるし、生存数では、微生物が最も進化しているということになってしまう。「脳」を話題にしたとき、初めて人類は進化のトップランナーになる。脳以外では、人類より進んだ機能をもっている生物は、いろいろいるようである。
 進化の根拠はいろいろな考え方がある。ここでは自分たちの子孫を残すことが「より良い」と考える。つまり進化の評価の基本となるものを「種の保存」に求める。生物は自分の子孫を後世に残す確率を上げるために進化する。自然を相手に、なにをもって「より良い」とするか。ある環境には対応できても、環境が変わればこれに対応できるとは限らない。あれほど、隆盛を極めた恐竜の絶滅は、このことを如実に物語っている。ただ、忘れてはならないのは、恐竜の時代は1億6000万年続いたということである。人類が出現してわずか300万年、恐竜は人類歴史の50倍は生き続けたことになる。この事実は、進化を考える時のタイムスケールの基準を与えるとともに、人類が永遠に生存する保証などどこにもないことを良く表わしている。
 したがって、生物の個々の変化に「良い」「悪い」と判定するのではなく、全体として、より環境変化に強く、自分の子孫を残す可能性を上げる手段を基準に進化を考えたい。生物における多様化は、対環境に対しての多様化と考えたい。多様な環境においてニッチを探しポジションを得るためには、自分も多様でなければならない。また、大きな環境変化において、自分の仲間を残すためには、危険分散のための多様化が有効である。多様化が子孫を後世に残す手段として有力であり、進化の基準の一つであることは間違いない[1]。
 その意味で文化の多様性は、人類の生存に不可欠だったのではないか。歴史を見ても消え去っていった民族は多い。自然や人工環境のさまざまな変化に対処し生き残ってきたのは、多様な文化の存在であったのではないだろうか。
 しかし、昨今の急激なグローバル化は、世界をモノトーンに染めつつある。その結果、多様な社会形態や文化の多様性保持を危うくしているのではないかと危惧の念を抱くのは私だけではないだろう。
文献1:[ダイソン、フリーマン「多様化世界」、鎮目恭夫訳、みすず書房、一九九〇/原著1988]の56頁に以下の記述がある。
宇宙の最古の始まり以来の発展は、対称性が次々に破れてきた歩みだとみなせる。宇宙はビッグ・バンの形で創造が始まるときには、完全な対称性をもち完全な混沌である。やがて温度がどんどん下がると、次々に対称性が破れ、ますます多様な構造が出現する。生命という現象もこの図絵に無理なく合致する。生命もまた対称性の破れである。まず始めに均一な海が何らかの仕方でさまざまな細胞、微生物、捕食動物と餌とに分化していった。やがて、均一な猿の集団が、さまざまな言語と文化、芸術と科学、宗教をもつように分化した。対称性が一つ破れるたびに、新しい水準の多様性と創造性が可能になる。もしかすると、われわれ の宇宙の本性と生命の本性は途方もないもので、この多様性の歩みには終りがないのかもしれない。
 生物の遺伝的進化と、人類の文化の進化のアナロジーは多くの人に取り上げれている。コンラート・ローレンツは文化の発展は系統発生における種の進化とよく似ている。そして言葉により可能となった「獲得形質の遺伝」が文化の歴史的な発達を早める要因となっていることを指摘する[コンラート ローレンツ、「文明化した人間の八つの大罪」日高敏隆、大羽更明訳、新施策社、1973、77頁に以下の記述がある。]
 人聞の文化の発達は、系統発生における種の進化とよく似ている。あらゆる文化の発達の土台をなしている累積的伝統は、本質的に新しい、いかなる動物にもみられない機能にもとづいている。とりわけそれは抽象思考と言語の使用にもとづいている。人間は、自由な記号をつくり出す能カによって抽象的に考え、言葉を用いることをつうじて、個体が獲得した知識をひろめ伝える、それまてみられなかった可能性を開かれたのである。その結果生じたこの「獲得形質の遺伝」は、一方では、文化の歴史的な発達が種の系統発生より数層倍もはやく進行する原因になっている。
この指摘は、「文明化した人間の八っつの大罪」の第七章、伝統の破壊で行われている。ローレンツはこの後、伝統的文化は自然淘汰を勝ち抜いてきたものであることを述べ。このようなものをいとも簡単に破壊することを大罪の一つとして挙げ、近代の人類に警告を発している。
 利己的遺伝子で有名なリチャード・ドーキンスは、「ミーム」という自己複製子を発明する。利己的遺伝子の主張は、「あらゆる種は、その遺伝子たちの定める枠に閉じこめられ、それらの遺伝子たちが生き残る確率を最大限にするような仕方で成長し行動することを強いられる。[フリーマン ダイソン、「多様化世界」、鎮目恭夫訳、みすず書房]」ということである。これと同じように文化も仮想的な自己複製子である「ミーム」により支配されるというのである[リチャード ドーキンス,「利己的な遺伝子」、日高敏隆他訳、紀伊國屋書店の306頁に以下の記述がある。]
新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシヤ語の語根をとれば「mimeme」ということになるが、私のほしいのは、「ジーン(遺伝子)」という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシヤ語の語根を「ミーム(meme)」と縮めてしまうことにする。・・(中略)・・楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壷の作り方、あるいはアーチ建造法などはいずれもミームの例である。遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するに際して、精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミームプール内で繁殖する際には、広い意昧で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
たしかに、そういわれると生物の遺伝的進化と、人類の文化の進化のアナロジーを議論するには、打ってつけの概念ではないか。「獲得形質の遺伝」というとなにか良いことばかりのような印象があるが、文化という枠の中で歴史を刻んできた人類は、目に見えぬなにかに支配されているという見方もできる。その主が「ミーム」なのである。
 また、ハーバート・A・サイモンは、「人工物を創造する過程にはジェネレータとテストは必要である。進化過程に例えれば、突然変異がジェネレータであり、自然淘汰がテストである」と言う[ハーバート・A サイモン、「システムの科学」、稲葉元吉、吉原秀樹訳、パーソナルメディアの70頁に以下の記述がある。]
人工物を創造する一つの方法は、創造者の頭脳からそれを生じさせることである。もう一つの方法は、ある種の淘汰作用に応じそれを進化させることである。進化に関する最も簡単な図式は、二つの過程に依存するものである、すなわちジェネレータとテストである。ジェネレータの任務が、多様性すなおち以前には存在しなかった新しい種を生みだすことであるのに対し、テストの任務は新しく生みだされた種を選別し、環境に十分適した種のみが生き残るようにすることである。現代の生物学的進化論でいえば、遺伝学上の突然変異がジェネレータであり、自然淘汰がテストである。
 進化に関しての勝負の時間軸はとてつもなく永い。どんなに文化が発展したとしても、人類が地球・宇宙という大きなシステムの一員であることには変わりがないことを忘れてはいけないだろう。
fujiwara.jpg藤原新也「書行無常」展に行ってきた。スケールの大きな良い展示だった。いろいろ考えさせられた。
展示会場は、3331 Arts Chiyoda。廃校になった学校を利用したスペース。広い会場で心地よかった。こういうスペースが増えるとうれしい。