2011年10月アーカイブ

害虫に関連するおもしろい本を見つけた。ヨーロッパで一時期、動物裁判が頻繁に行われていたのだそうだ。動物には、昆虫も入る。その中に、ゾウムシが裁判にかけらた話が出ていた[池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書、1990)の93頁]。概略は以下の通りである。

訴えがあると、裁判所はゾウムシに出頭を命じる。出頭しない場合(出頭するわけはないのだが)補佐人・代訟人が任命される。弁護人は、ゾウムシがブドウを食べるのは、神の法・自然法で是認されていると主張する。これに対し住民の弁護士は、動物は人間の利益になるように作られたのであり、かれらは、人間の権利を侵害する権利はないとする。ゾウムシの弁護士は、たしかに、人間は動物の上に立ち、それに指令を与える権利はあるが、罰したり禁止したり破門したりする権利はどこにもない、と主張する。裁判官の判定は、ゾウムシの所有権をみとめ、適切な土地を与える。

この奇妙な制度は、自然に対するおそれから征服への変換、自然宗教からキリスト教への変換の時期(12〜15世紀)に生まれたという。日本において、このようなことが起こらなかったのは、仏教の思想によるところが大きいという[池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書、1990)の19頁]。仏教においては、古来、「人間はたとい生類の筆頭であっても、その仲間であり、そこの本質的な相違はない」と考えられた。もちろん輪廻思想も、それと関連している。
動物裁判という事実は、我々に、自然と人間の関係・宗教の力を鮮やかに見せてくれる。そして、宗教そのものも、それが生まれる土地における「自然」の性質に強く影響されるのではないか。熱帯アジアのような、自然の回復力の強い地域と、回復力の弱い中東・ヨーロッパでは、自然に対する感情が異なるのは当然であり、そこから生まれる宗教の性質が異なるのも当然なのだろう
moniment.png このようにみてみると、風景とは、「環境という客観的に評価しうる対象に対する人間の解釈」ということができそうです。興味深いのは、その評価の根底には、風土がある、つまりすべてが個人で決まるわけではなく、国や文化により風景の評価は異なるのだということです。このことを別の角度から解釈したのが、第4回に紹介した、「風景は「基本風景」、「原風景」、「文化的表現」の3層からなる」という木岡伸夫[安彦一惠 佐藤康邦編、「風景の哲学」、叢書【倫理学のフロンティア】XI、ナカニシヤ出版、2002の38頁]の説なのです。
たしかに、富士山を見てきれいだと思います。しかし、それは本当に自分がそう感じているのか、文化的背景により、そう思うようになってしまったのかの区別は難しいところです。私の場合、虫を追いかけて自然の中にいると全く予想もしなかった光景に出会い感動することがあります。そのような感情は本物のような気がします。しかし、それも自分が安全でありその美しい光景が自分に災いを起こすことはないこと知っているから、環境を風景としてみることができるのだといわれれば、そうかもしれませんねと答えるしかありません。
さて、われわれは、風景というとどうも「視覚」中心に考えがちです。それはもしかしたら、我々が風景の多くを「写真」をとおして見ているせいかもしれません。風景写真は至る所に存在します。これでもかこれでもかというように、「美しい風景」をたたき込まれます。養老孟司がいっているように、「視覚は多様性を認識し、聴覚は筋書きを認識する」のです[養老孟司「脳が読む」、法蔵社、1994の137頁に以下の記述がある。 脳でいえば、筋善きは「耳のもの」であり、多様性の認知は「目のもの」である。「絵解き」というくらいで、目には本来、筋書きはない。絵に筋書きがあれば、絵解きはもともと不要なのである。生まれつき耳の間こえない人たち、こうした人たちが、もっとも難渋することはなにか。それは因果関係の理解である。あるいは、疑問文という形式の理解である。]。静止している音はありません。風景の現場にいる人は、視覚情報だけでなく、聴覚・触覚情報などを総合的に認識しているのですが、最も広く共有されているメディアである印刷物では、時間軸のある情報を伝えるのは難しいのです。前述の風景を美しいと感じる文化的背景に写真という存在があるのかもしれません。
kasekinomori.png 2:風景とは、必要とあらば感覚的な把握の及ばぬところで空間を読み解き、分析し、それを表象するひとつのやり方、そして美的評価に供するために風景を図式化し、さまざまな意味と情動を付与するひとつのやり方なのです。要するに風景とは解釈であり、空間を見つめる人間と不可分なのです。ですからここで、客観性などという概念は放棄しましょう。[アラン・コルバン、「風景と人間」、小倉孝誠訳、藤原書店、2005の10頁]
3:次に勝原文夫『農の美学 − 日本風景論序説』によりますと、「風景」とは、≪人間と対象、主体と客体の関係において、「風土によって触発される審美的印象」と理解することとしたい≫(4貢)、と定義されています。この見解は私の見方と非常に近いと思います。そしてそこに引用されているウィルリ ヘルパッハの見解も同じようなものです。≪風景とは土地の表面の一部と、それに相応せる天蓋の一部とが、吾人の心に惹き起こす全感官的印象を謂ふ≫。又、今西錦司の定義をみますと、≪風景というのは、美なるものとして、人間によって価値づけられた自然である≫(今西錦司全集、九巻、四三七貢)、とありますが、これも大切な視点を指摘していると思います。[内田芳明、「風景とは何か 構想力としての都市」、朝日選書445,朝日新聞社、1993の42頁]
これまで、原風景について考察してきました。今回は、その基となる風景とはそもそも何なのか考えてみましょう。太古の昔、自然は驚異であり、生存するための戦いの場であったわけで、風景というような概念はなかったといいます。
人類はある時、「風景を発見した」という言葉が当てはまるのです。
風景を考えていくヒントとしていくつかの文献での言葉を紹介しましょう。
1:風景そのもの」をテーマとする限り、たとえば大地の表面の形状として「風景」を理解することはできない。それを「客観」と呼ぶなら、「風景」とは客観と、それに対している主観との間に存立する一つの事態であると言うほうが正確であろう。では、そもそも「風景」とはいかなる事態であるのか。たとえば人が環境世界を知覚しているという事態から問うとして、そこにいかなる限定が加わるとき「風景」となるのか。(因みに、ほとんど「自然」(の知覚相)と同義で「風景」と言われる場合もあるが、編者は「人工的なもの」、(ドイツ語では"Stadtschaft"という言い方もあるが)たとえば都市についても「風景」という事態があると考えている。「風景」を規定するとき、最低限この点を包含するものでなければならないであろう。)[安彦一惠 佐藤康邦、「風景の哲学」、叢書【倫理学のフロンティア】XI、ナカニシヤ出版、2002の43頁]

最近、昆虫採集者の肩身が狭い。網をもって歩いていると「自然破壊の張本人」みたいにじろじろ見られるし、採集禁止の場所がやたらと増えた。実は昆虫採集で捕獲される昆虫数は、宅地造成・道路拡張などの人工環境拡大事業で失われる昆虫数に比べ全く問題にならないくらい少ない。虫屋(昆虫愛好家)は悔し紛れに叫ぶ「鳥が食べる昆虫の数は1年で十万だそうだ、鳥一匹殺した方が、遙かに昆虫保護になる。」と。このように、立場によりものの見え方は異なる。どちらが正しいというわけではない。このような見方で昆虫と植物そして人間との関わりを見てみよう。

 植物が花をつけ、蜜や花粉を報酬として提供する代わりに、花粉をめしべに運んでもらう主たる運搬者(送粉者)として昆虫を利用していることはよく知られている。双方が利益をうる共生の典型例と一般的に捉えられている。

 さて問題は昆虫側にある。送粉者として活動するのは成虫である。昆虫は卵・幼虫・蛹という過程を経て成虫になる。成虫が子孫を残す生殖作業が主な仕事だとすれば、幼虫は食物を摂取して成長するのが役目だといえる。つまり、幼虫には大量の食料が必要なのだ。その食料の主な対象となるのが植物である。

 地球上に出現から多くの昆虫が出現してからしばらく(3億年前~1億5千年前)の地球上は、裸子植物(針葉樹など)の時代であった。この時代昆虫の幼虫は、菌類に適応、針葉樹にも適用したものもあった。そして、花を持つ顕花植物全盛時代とともに昆虫も繁栄を遂げたのである。しかし、昆虫の植物との関係は送粉者としての立場とは異なる。植物側には直接的な利益が存在しない。このため、植物側も物理的・化学的な忌避物質で対抗する。昆虫たちはその防壁を様々な方法でくぐり抜ける。これに植物も新たな策で対抗する。現存する昆虫たちも全ての植物に適応することは出来ず、種によって食料とする植物(食草・寄主植物)は決まっている。これが、昆虫達が植物との1億年以上のやりとりの中で獲得したものなのだ。

 ここで人間の登場である。テーマは、害虫である。昆虫の多くは食植性、つまり植物を食べる。その植物が人間にとって食糧や木材として利用価値の高いものであれば、その昆虫は「害虫」になる。広辞苑によれば、害虫とは「人畜に直接害を与え、または、作物などを害することによって人間生活に害や不快感を与える小動物の総称」とある。さて、ここでは、農業害虫の中心に、害虫とは何か少し考えてみよう。

 はじめに確認しなければいけないことは、昆虫たちにとって最大・最悪な害虫?は間違いなく人類であるということである。昆虫だけではない、地球上に生存しているほとんど全ての生物にとっても事情は同じだろう。

 さて、畑という人工の場は、昆虫にとってどんな生活環境なのだろうか? 畑は、極めて限られた種類の植物が広範囲にわたって棲息する環境である。つまり、人工環境の特徴は、「多様性の欠如」にある。農業でも、林業でも収穫しやすい植物を大量に栽培する。それが植林であり、畑である。その植物が、昆虫が1億年以上の進化の過程で獲得した適応可能な種であるかどうかで結果は大きく異なる。つまり、畑はそれを食べる昆虫にとっては食料の倉庫であり、食べない昆虫にとっては砂漠と同じだということになる。自然界ではこのように異常に大量な食料に恵まれる環境はない。このような人工環境で、特定種の昆虫が大発生することは必然といえる。

 ただし、畑は(収穫によって)ある日いきなり食料がゼロになる環境でもある。これも自然界では考えられないことである。昆虫にはこのような人工的な環境に適合しているものがおり、その多くが「害虫」である。昆虫達は、このような環境にも適応しなければならないのである。逆に言えば、そのような適応性を持った昆虫だけが生き残ったのだろう。

 自然状態で畑のような環境が発生したとしよう。いわゆる害虫と呼ばれる昆虫は大発生をして、畑の植物を食べ尽くしてしまう。その結果、その環境は破壊され、その昆虫の絶滅してしまう。そして、多様な植物が発生するような環境に変わっていくかもしれない。害虫とはそのような役割をもった昆虫なのだ。

 人間はこれらの害虫を、「農薬」という武器を使って駆除してきた。しかし、時間がたつと農薬に適応するものが現れたり、農薬により天敵が駆除され、新たな「害虫」が出現したりすることがわかってきた。まさに、「いたちごっこ」である。これらのことから感じるのは昆虫の多様性の強みと適応性の高さである。自然という大きなシステムの中での大先輩「昆虫」には、新参の人類にはうかがいしれないような「生き残るための戦略」が隠されているのだろう。



 


われわれ人間は五感で環境を認知している。それが自分の周り環境の全てだと思いがちだが、それが違うことはすぐわかる。認知できるのは一部だけである。しかし、我々のまわり広がる異空間の存在を認識している人は少ない。昆虫の世界である。昆虫は地球上に遍在している。つまり昆虫は何処にでもいる。しかし我々人間はそれを認識することは少ない。認識するのは、我々の生活空間にも侵入してきた時である。人間の生活空間は人工空間である。特に都会で、人工空間に昆虫が入り込む(ゴキブリ、アリ、ハチ)と大騒ぎになる。人工空間では、自然も管理されたものでなければならないのだ。それでも、昆虫は人工空間に入り込む。それはそうだろう、人間の住む空間よりも遙かに広い空間に昆虫はいるのだから。人工空間は自然空間の一部でしかない。そして、そのことを都会の人間はほとんど意識しない。

地球上に棲んでいる昆虫の種数については、様々な意見がある。1千万種を中心に、数百万種から1億種までその範囲はあまりにも広い。つまり、余りにも多くてよくわからないというのが本当のところなのだろう。名前が付いているのが約百万種で、毎年三千種ぐらいが新種記載されているという。新しく種が生まれたわけではなく(多分生まれていない)未知の種が発見されているのだ。(ちなみに人類は種のレベルでいえば、一種である。)そして、その生態/形/色などは実に多様である。昆虫が生き残った理由はこの多様性にあるといって良い。つまり、大きな環境変化が生じた際、それを克服して生き残る確率が高くなるのである。

こんな昆虫と付き合っていると人間のわかっていることなどほんの一部であることがわかる。われわれは、自分中心に世界を見ているのだが、遙かに大きな自然空間が存在している。養老孟司のいう、「都会は、ああすればこうなる社会」と180度異なる世界が、我々の周りにも存在する。ああすればこうなるだけの社会は怖い。なぜなら、そこでは多様性が欠如しているからである。

21世紀は、自然環境と人工環境を今までとは異なった思想で再構築する時代だと思っている。リアルを代表する自然とネットなどヴァーチャルが強い人工環境を結びつける時代といっても良いかもしれない。そんな時、未曾有の大震災が発生した。実態は大変なのだが、長期的に見ると「自然環境と人工環境を今までとは異なった思想で再構築する」良い機会だということもできる。自然環境は複雑だ、自然との調和には多様な対応が必要である。「ああしても、こうならない」のである。

さて、この昆虫たち、人間世界では思いも付かないようなこの多様な形態/色彩をしている。しかし、この多様な形態/色彩は一億年以上の歴史の上にいるのだということを忘れてはならない。つまり、人間から見てどんなに奇抜でも、人間が地球上に出現する遙か以前から、環境変化や生存競争にさらされる中で、生き残ったデザインなのである。好き嫌いはともかくそんな虫を見て、その形に驚き、美を感じるのは、1億年以上の歴史の中で完成されたデザインなのだからだろう。

舞踊や武道の世界では、形が重視されていると聞く。その形は、歴史の中で無駄な部分をそぎ落とし・そぎ落とし、新たな環境にも適応して完成させたのだろう。いや完成途上にあるのだろう。つまり、長い歴史の中で淘汰され生き残った形という意味で、虫の世界を思い出すのだ。完成された形/所作が美しいと感じるのは、我々が自然に対して感じるのと似た面があるかもしれない。完成されたもののもつ美しさだ。

舞踊家や武道家には、自然の本質を知っている人が多いのではないか。「自然環境と人工環境を今までとは異なった思想で再構築する」ことを考え、実践するには、うってつけの人材だと思う。