2009年9月アーカイブ

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これからのコミュニケーション
 我々人類は言葉という強力なコミュニケーション手段を獲得した。そして、様々なコミュニケーションメディアを駆使できるようになった。しかし、考えてみると子供の頃はもっと周りに自然があり、それとの情報のやり取りを楽しんだような気がする。勉強ができなくても自然とのコミュニケーションに長けている子供は、尊敬されたものだ。すべても事物は情報を発信していると考えたらどうだろう。自然が発する様々な情報を理解する力がある子が尊敬されていたのだ。今は自然とのコミュニケーション能力がどんどん失われているのではないか。
 ヴァーチャルな空間は、地理的距離をこえて広がっている。それは確かにすばらしいことなのだけれど、我々生身の人間は、リアルな世界で生活している。マクルーハンは、メディアを人間の感覚の拡張といった。それは、とても分かりやすい表現と思うのが、毎日の暮らしのなかでの自分の感覚が強化されたという実感はない。これまでのメディアの発展と否定する気は全くないのだけれど、新しい方向として、眼鏡やコンタクトレンズ、そして補聴器のように、リアルな世界で人間の感覚をダイレクトに強化するような方向はないものだろうか。ウェアラブルコンピュータとか、メディアファッションということがいわれるが、これまでのヴァーチャルな世界を小型に、また、移動性をもたせるというアプローチがとられているように思う。もっとダイレクトに人間の感覚を拡張したり、望むなら昆虫の能力を付加したりする事はできないものだろうか。
 最近、昆虫写真家の栗林慧さんが、特殊なカメラを開発して、昆虫の視点から世界を見るという作品を発表して、話題になっている。そこには、見たことのない世界が広がっている。そうなのだ、人間は世界のすべてをみていると思っているが、我々の周辺には人間の知らない様々な世界で満ちあふれているのだ。
 自然とのコミュニケーションに長けた子供のようになれたらどんなに楽しいだろう。昆虫の能力にはとてもかなわないとしても、自然の発する情報をもっと理解できるようになったら、どんなに嬉しいだろう。
文献:
[1] 松香光夫、大野正男、北野日出男、後閑暢夫、松本忠男:「昆虫の生態学」、玉川大学出版部、1992
[2] ドナルド・R・グリフィン:「動物の心」、長野敬/宮木陽子訳、青土社、1995/原著1992など
[3] バート・ヘルドブラー、エドワード・O・ウィルソン:「蟻の自然史」、辻和希/松本忠夫訳、朝日新聞社、1997/原著1994 

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同一種内でのコミュニケーション


 次に、もっと狭い意味でのコミュニケーション、同一種内での昆虫間のコミュニケーションを松香光夫らの記述[1]に従って、化学的(臭いなど嗅覚による)コミュニケーション、機械的(音・振動・接触など聴覚や触覚による)コミュニケーション、視覚的(体色や発光・身ぶりなど視覚による)コミュニケーションに分類して考えてみよう。
 化学的コミュニケーションは、フェロモンによるコミュニケーションである。動物はさまざまな化学物質を体外に分泌し、この化学物質をコミュニケーションに利用する。フェロモンとは、動物によって情報を運ぶために交換されている化学的物質に対してつけられた名前である。リュウキュウアサギマダラの雄は、尾の先端からブラシ上の毛を出し、そこからフェロモンをまき散らし雌を誘う。また、ミツバチやモモアカアブラムシは、攻撃を受けると、その個体は警報フェロモンを分泌するという。また、アリ・ミツバチなどの社会性昆虫が、食物の在処を仲間に知らせるために、道標にフェロモンを使うのは良く知られている。
 フェロモンによるコミュニケーションの特徴は、時間が経過しても情報を残せることである。このため、他者だけでなく、自分に対しても後々フィードバックをかけることができる。これは人類のコミュニケーションでいえば「手紙」とか「掲示板」に相当する。その意味で、社会性昆虫の道標としての使用は最も当を得たものといえよう(人間から見たらの話だが)。
 ちょっとした食べ残しにいつの間にか蟻がたかっており、気がつくとえんえんと蟻の行列が続いていたなどということは、誰もが一度ぐらい経験しているだろう。中南米にいるハキリアリは、植物の葉を巣に持ち込みこれを用いて菌類を繁殖させて、食料としている。その威力は凄まじいもので、小さな木なら数時間もすると丸裸になってしまう。自分のからだより大きな葉を運ぶその行列は、一見の価値のある迫力のあるものである。
 また、フェロモンのこのような性質を、哺乳類が自分の縄張りをつくるのに利用していることもよく知られている。貧弱な嗅覚しか持ち合わせていない人類には、とても考えられないことである。
 機械的コミュニケーションの中心は音である。この分野では、脊椎動物が断然優勢であるが、昆虫もこれを利用してコミュニケーションを行なう。よく知られているのは鳴く虫である。鈴虫、松虫、邯鄲など、古来日本人は虫の鳴き声を楽しんできた。また、蝉は鳴く虫のもう一方の代表である。蝉の声もまた日本人の季節感形成にとってはなくてはならぬものである。これらは性行動すなわち、雄が雌を呼ぶのが主たる目的と考えられている。また、ハキリアリは、キーキーという摩擦音を出すことができる。これを用いて警戒音を発し仲間に知らせるという。また、採取するのに適した植物を見つけると、仲間に協力するような合図も行うそうである。
 視覚的コミュニケーションは、主として紋様や色彩によるものである。昆虫の世界では、ほとんどの種で雌より雄のほうが派手で目立つ色彩をしている。これも、雌を誘うためといわれる。また、擬態もその意味では、捕食者に対する視覚的コミュニケーションである。しかし、紋様や色彩は時間軸で変化させるわけにはいかないから、そのままで狭い意味でのコミュニケーションといえるかどうかわからない。ただし、昆虫たちは自分の斑紋を動作により効果的に使う。捕食者が現れると、急に警戒色をみせるとか、威嚇のポーズを取るなどの行動を起こす。これらは、立派なコミュニケーションといえるだろう。
 人類のコミュニケーションの特徴は、言葉という記号を用いて抽象的な意味を伝えることである。ところが、ミツバチは、自分の動作で餌場への距離と方向を仲間に知らせることができる。その様子を少しのぞいてみよう。
 ミツバチは、円形ダンスと尻振りダンスにより、仲間に花の在処を知らせる。花が近くにあるときは(90メートル以内)、巣に戻ったミツバチは、とってきた蜜を一滴吐き出し、その点を中心に円形に回って、近くに花があることを知らせる。花のある唖置が遠い場合は、尻振りダンスにより、距離と方向を知らせる。尻振りの速度が距離に対応する。方向は8の字状に進むダンスの方向で示す。巣箱は地上に垂直に立っているので、前後方向が示しにくい。このためミツバチは、方向に対するリファレンスに太陽を使うという高等なことをする。さらにおもしろいのは、このダンスには方言があり、違った地方の種を同じ巣箱に入れると混乱を生ずるそうである[2]。
 蟻の場合、前述のフェロモンに動作を加えて、かなり複雑な概念を仲間に知らせることができるという。一種当たり、10~20の一般的な意味を持った「言葉」や「フレーズ」をもっているという[3]。フェロモンの分泌腺は体の数カ所に分布しており、それぞれ異なったフェロモンを分泌する。これに、触覚を接触したり、体をたたいたりする動作を組み合わせるのである。

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生物のコミュニケーション
 

樺色の大きな蝶オオカバマダラは、北アメリカを主な棲家としている。おもしろいのは夏と冬で棲息地に変化があることである。夏の間はアメリカ合衆国全域とカナダの南部の広い地域で生活している。9月に入ると各地のオオカバマダラは南に向かって移動を始める。移動する過程で次第に群を形成し、やがて巨大な群となって、メキシコ北部やカリフォルニヤの限られた場所に集結して冬を越す。その距離は2000マイルを超える。越冬地となるメキシコ中部の森では、木という木にオオカバマダラが翅を休め、蝶だか葉っぱだかわからないような状態になるそうである。その数は10万ともいわれる膨大なものである。春3月になると、群は解散し、ばらばらに北に飛び立つ。カナダの南部に到達するのは6月である。
 人間とともに現在、地球上で最も進化に成功した昆虫たち、彼らのコミュニケーションは、どのようになされるのであろうか。コミュニケーションといえば、ソフトウェアの領域である。どう考えても人類の方が進んでいるように思うが、人類にオオカバマダラのようなまねはできない。オオカバマダラは、なんらかの手段で、環境からの情報を獲得しているのだろう。つまり、広い意味でのコミュニケーション手段をもっているといえる。
 生物にとってのコミュニケーションの必要性を少し考えてみよう。まず、子孫を残すため異性を探さなければならない生物にとって、自分と同じ種を識別するということは重要な活動である。そして、オス立場からは、自分の子孫を残すためのメスの同意を得る必要があるし、メス立場からは、より良い子孫を残すためのオスの選択があるかもしれない。
 生物は地球という環境を共有して生活している。生物はその環境の中での自分のポジション、すなわちニッチを探して進化をするといわれる。とすれば、そこには、環境を共有するものたちとのコミュニケーションが生ずるはずである。捕食者から逃れるため、敵との区別もこのジャンルに入るかもしれない。このように考えると、広い意味でのコミュニケーションは、生物の生存にとって、食事とか生殖と同じぐらい重要な活動であると考えられる。
 一般にコミュニケーションには送り手と受け手がおり、相互作用が成り立っている。したがって、自然から得る情報というのは、一般的にはコミュニケーションとは呼ばないのかもしれない。しかしながら、人間社会にも「マスコミュニケーション」という、一方通行のコミュニケーション手段がある。マスコミュニケーションには、時間をおいてのフィードバックがあるというかもしれない。しかし、一方通行に見える自然界におけるコミュニケーション手段も、大きな地球システムの中で、また自然淘汰システムの中で、フィードバック作用が働いている可能性は十分ある。その意味で、ここでは自然界における一方通行に見える情報伝達も、広い意味でのコミュニケーションと考えたい。

前回、原風景について書きました。鎮守の森、里山・雑木林は、日本人の原風景としてよく取り上げられる場所です。鎮守の森、里山・雑木林とは、どういう場所なのか考えてみました。思い当たるのは、これらの場所が、人間と自然の境界であるということです。日本の特徴は、人間と自然の境界が明確ではなく、なんとなく互いの領域に、にじみだしているところにあります。そんな場所の典型が、鎮守の森、里山・雑木林なのです。

このような現象は、他の国ではなかなか見ることができません。人は、自然と闘い自らの人工世界を築いてきました。一般論でいえば、人類の行ってきたことはまさに「自然を破壊し、征服」することだったといえるでしょう。自然は敵だったのです。西洋での身近にある自然は、一度破壊した後自分で再構築した「飼い慣らされた自然」が多いのです。人類の自然破壊による地球規模の環境問題に直面した今、人類は、次の時代向かって自然との関係の見直しを迫られています。そうすると、手つかずの自然が何よりも重要視されるようになります。人工の場所と自然の場所が明確に区分されることが多いのです。

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人類文化の進化

 人類とて生物の一種であり、進化の枠組みは変わらない、といってしまっては話が進まない。

 人間は自分たちが最も進化した生物と思っているだろうが、多様性では昆虫にとてもかなわない。生物としての人間は1種類である。多様性を進化度の尺度とすれば、昆虫たちが最も進化した生物だとも考えられる。しかし、人間だって確かに進化の頂点にいる生物に見える。この疑問を養老孟司流に解答すれば、昆虫はハードウェア(形)を進化(=多様化)させ、人間はソフトウェア(脳)を進化(=多様化)させたということになる。昆虫はハードウェアを進化させ、とてつもない種類の形態を生み出した。一方、人類はソウトウェアを進化させ、さまざまな文化を生み出した。勝負はお相子である。

 さて、人類はどのように進化(=多様化)したのであろうか。昆虫が地球上に出現したのは、3億~4億年前石炭紀のことである。一方、人類の最古の祖先といわれるルーシが出現したのが、わずか300万年前である。昆虫と人類が進化の頂点にいるとすれば、人類の進化の速度は脅威的に速い。この速さの原因はどこにあるのか。単にソフトウェアとハードウェアの違いと片づける訳にはいかない。進化論のなかで私にとって最も興味深いのは「獲得形質」の継承の是非である。獲得形質というのは、生物がその生存中に得た形質、毒のある食物を一度経験すると二度と食べないとか、鍛錬により100メートルを9秒台で走ることができるようになる、というようなことである。

 現在の生物学ではこの獲得形質の継承は、否定されている。さて、獲得形質の継承ができない、もしもできたとしてもその効果が極めて少ないとすれば、あとは確率に頼る他はない。突然変異と自然淘汰に代表される進化過程のなかで、昆虫たちは、気の遠くなるような時間を使って、種の多様性を実現したのだ。

 さて人間は、いかにしてソフトウェアの多様性を手に入れたか。実は人間は獲得形質の継承に成功したのである。人間は言葉を手にし、高度なコミュニケーション手段を確立した。また、文字の発明により、極めて効率よく時間的・地域的に情報を伝達することができるようになった。ここでの主題からいえば、未来に知識を残す手段を手に入れたことに大きな意味がある。人類は子孫に知識を継承する手段を獲得したのである。

 これは獲得形質の継承の効率の飛躍的向上と捉えられよう。この獲得形質の継承システムをさらに効率よく、また人類特有の制度として実現するやりかたを、「教育」といい、その場所を「学校」と呼ぶ。人間社会では、学校での教育という形で獲得形質の継承が大量に生み出されている。突然変異と自然淘汰という進化過程に比べ、獲得形質の継承による進化のほうがはるかに効率的なことは明白である。たとえば、世代ごとに1%知識が増加したとすると、10世代1.1倍、100世代で2.7倍、1000世代では約2100倍になる。時代とともに、急速に知識が集積される様子がよくわかる。人類が出現してから300万年、文字の出現からわずか5000年、人類の文化の急激な進化は言語による獲得形質の継承がいかに有効であったかをよく物語っている。

 生物の遺伝的進化と、人類の文化の進化のアナロジーは多くの人に取り上げられている。コンラート・ローレンツは文化の発展は系統発生における種の進化とよく似ている。そして言葉により可能となった「獲得形質の遺伝」が、文化の歴史的な発達を早める要因となっていることを指摘する。利己的遺伝子で有名なリチャード・ドーキンスは、「ミーム」という自己複製子を発明する。利己的遺伝子の主張は、「あらゆる種は、その遺伝子たちの定める枠に閉じこめられ、それらの遺伝子たちが生き残る確率を最大限にするような仕方で成長し行動することを強いられる。」ということである。これと同じように、文化も仮想的な自己複製子である「ミーム」により支配されるというのである。確かに、そういわれると、生物の遺伝的進化と、人類の文化の進化のアナロジーを議論するには、うってつけの概念ではないか。「獲得形質の遺伝」というと、なにか良いことばかりのような印象があるが、文化という枠の中で歴史を刻んできた人類は、目に見えないなにかに支配されているという見方もできる。その主が「ミーム」なのである。

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多様性
 人類は自分たちが最も進化した生物だと自認している。確かに人類は進化の最先端にいることは事実であろう。しかし、考えようによっては現存する生物は、それぞれ進化の最先端にいると考えられなくもない。進化という言葉からはなにやら「より良い」というニュアンスが伝わってくる。より良いとは、なにに対してより良いのであろうか。自分たちの子孫を残すことが「より良い」のならば、現存する生物はわれわれ人類の理解を超えたところで、「より良い」戦略を持っているのかもしれない。だからこそ、生き残れてきたのだという考えもあると思うからである。ここでは自分たちの子孫を残すことが「より良い」と考える。つまり進化の評価の基本となるものを「種の保存」に求める。生物は自分の子孫を後世に残す確率を上げるために進化すると考えてみる。したがって、生物の個々の変化に「良い」「悪い」という基準を持つのではなく、全体として、より環境変化に強く、自分の子孫を残す可能性を上げる手段を基準に進化を考えてみよう。
 生物種は、数百万種とも数千万種とも言われる程多様な種を誇っている。何故このような多数の種が必要なのだろうか?自分の子孫を残す可能性を上げるための手段としてこれをとらえてみよう。多様な環境においてニッチを探しポジションを得るためには、自分も多様でなければならないだろう。また、大きな環境変化において、自分の仲間を残すためには、危険分散のための多様化が有効であることも確かだろう。多様化が子孫を後世に残す手段として有力であり、進化の程度を示す基準の一つであることは間違いがないだろう。

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いわゆる虫好きがいる。昆虫少年のなれの果てである。このなれの果てになる道はかなり狭い。我々の年代(昭和10~20年代生まれ)なら、男の子の多くが昆虫採集を経験した。しかし、小学校高学年から、中学生になるとその子供の大半は、別のことに興味が移ってしまう。一部残った者が生物部などで虫とのつきあいを続ける。そして大学を卒業して社会人になっても続けるという人間は極くまれである。このように学校を卒業すると同時に普通は卒業する昆虫採集の世界に留年している人たちを「虫屋」と総称する。普通の人から見れば変人と思うかもしれないが、普段はいたってまともな人たちである。高度成長期・会社第一主義の時代には、この種の人間は社会的異端というほどではないにしても少なくとも歓迎される存在ではなく、変人と思われるのがいやで世を偲ぶ仮の姿を決め込んでいた人が多かった。しかし、最近は、地球環境の危機とか、会社人間からの脱却とか、なにやら様子が変わってきており、本性をあらわした人が多いし、少年時代の思い出に舞い戻り、昆虫採集を再開する人も出てきた。
 実はこの世界も後継者不足に悩んでいる。コンピュータゲームが友達の少年たち、虫を殺すのは悪いことだと教える教師や父兄、子供たちはどんどん自然から離れていってしまった。上述のように、最近は環境問題や自然に対する関心が高まっている。しかし、子供の時に昆虫と遊んだ(結果として殺してしまった)経験のない人たちの自然に対する取り組みは、観念的になりやすい。遊んでいるつもりが死んでしまった昆虫の姿を見たときの不思議な感じは、一生を左右する。良くいわれるように、「自然は偉大な教師」なのである。養老孟司説によれば、バイオなどの研究で良い仕事をする人たちのほとんどは、昆虫少年(少女)だったのだそうだ。
 私は「蝶屋」である。虫の中でも蝶にしか興味のない人種をこう呼ぶ。蝶の生態写真を40年近く撮り続けており、著書もある
 
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著者:中沢新一
出版社:集英社
出版年:2002

中沢新一が、9.11にショックを受けて書いたという。「圧倒的な非対称」、「緑の資本論」、「シュトックハウゼン事件」の3章からなる。いずれも現代の問題をこれまでとは異なる視点から分析している。

心に残る一文: イスラームは、いかにも「最終・至高の一神教」らしく、利子(利潤) の発生を倫理的禁止という形を通して抑制しょうと試みてきた。そのために、その世界では資本主義の形成が、長いことおこらなかった。利子は資本主義の原子である。この原子を発生の段階で抑制する「分子レベル」の改革を通して、イスラームは貨幣増殖を基本とする資本主義社会の出現を、押しとどめてきた。
 ところが、同じ「アブラハムの宗教」である一神教の立場に立ちながら、キリスト教世界では、生産力の増大と商業活動の活発化が本格化しはじめる十三世紀以降になると、利子・利潤の獲得に対する抑制を、教会が急速に弱め始め、そこから本格的な資本主義の形成への道が開かれるのである。これはたんにイスラーム圏ではおこらなかった宗教の影響力の低下が、キリスト教圏ではおこった、というにすぎないのだろうか。それとも、キリスト教の思想構造の内部に、自己増殖をおこなうものの活動を容認するような可能性を秘めたなにかの要素が、はじめからはらまれていたためだろうか。
(68頁)
さて、「原風景」論議はこのくらいにして、我々現代人にとっての原風景について考えてみましょう。現代人のなかでも「故郷」をもたない都会人にとって「原風景」は存在しうるのでしょうか。岩田の定義による「原風景」は、「自然」と「幼少の時代の体験」が基盤となっており、自然の少ない都会人にとって、かなり厳しい状況にあります。戦後の焼け野原や所々に残る自然で遊んだ経験のある私には、それなりの「原風景」があるのですが、たまに実家に帰っても昔の面影をとどめる風景はどこにもありません。トンボを追った小川の護岸はコンクリートで固められ、水神のあったところは住宅地となって近寄ることさえできないのです。突如「原風景」が浮かんでくるような経験をしたことは残念ながらないのです。一方、木岡のいう「原風景」は、語りにより「すり込まれた」疑似体験を通して、すべての人がもっているといえるかもしれません。

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自宅に光ファイバーが来ている。もう少し安くなると良いのだけれど、高速インターネットの恩恵を満喫している。
こんなことを言うとおまえは本当に技術者かと疑われそうだが、あんな細い光ファイバ(10ミクロンの石英ガラス)にそんな大量の信号が通ることがどうも私には信じられない。それが、数百キロもとどくというのがもっと信じられない。普通の感覚から言えば、数百キロもある厚いガラス越しに向こう側が見えるということではないか。一応原理は知っているし、頭では理解しているのだけれど、感覚的についていけないのである。技術の進歩は本当にすごいと思う。
もっとも、東京からでも富士山は見えるが、富士山からの音は聞こえない。月だって星だって見える。人類が視覚(光)を用いて、通信を始めたのは当然なのだ。光を用いた遠距離の通信の代表が狼煙である。中国やペルシャでの狼煙通信の歴史は、紀元前七世紀から紀元前六世紀にさかのぼる。人類は狼煙という視覚(光)による手段で通信を始め、また、光に戻ってきたのである。
蛍は人類など、この地球上にいないときから光通信を行っている。蛍の光る機構は、複雑な化学反応によることがわかっている。また、蛍は種類によって発光の時間パターンが異なっている。わが国に棲息するゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルのうちでは、ゲンジボタルの発光時間間隔がもっとも長くなっている。このような事実などから、蛍の光る目的は雄と雌が出会うための手だてであることは、間違いないと考えられている。ホタルは光通信で愛のメッセージを送っているのだ。
人類は、光通信で何を伝えているのだろう。