2008年10月アーカイブ

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移動はバスである。案内役の、採集のプロ若原さんが、虫のいそうなところを物色し、バスを止めて採集する。勿論虫採りは、楽しいのだが、私にとっては、バスの中が思いの他楽しかった。養老さんと若原さんの漫談を聞けるのである。若原さんは、虫採りの専門家で、中国など各地で暴れ回ったらしい。さすが、養老さんも若原さんには一目置いている。そんな二人のプロが他にやることのないバスの中でいろいろな話をしてくれるのだから、おもしろくないはずはない。しかもタダである。
例えば、「ベトナムのイヌは、人をかまない。なぜなら、かむような犬は、人が食べてしまったから。」「山岳民族をビエンチャンに連れてきて、刺身・わさびを食べさせた。」「昆虫を食べるとおかしくなることがある。(ということは、沢山食べてきたわけだ。そういえば、ニューギニヤから来た採集人と高尾山を歩いていた時、蛾の幼虫を見つけた彼がいきなり口に入れて、これは・・・だといったのを思い出す。)」「養老さんと私は似ている。興味のないことは一切しない」
 ラオスの山には、蛭が多い。私もやられた。自分の血を吸ってまるまると太ったやつをみるのは、やはり気味が悪い。ただ、そういうことがあると、養老さん、若原さんの武勇伝を引き出すことができる。養老さんは、たくさんやられて、野外でパンツ一丁になったとか、オーストラリアのヒルはひどく、半年影響があったとか。
 養老さんの若原さん評は、「達人」である。つまり、職人や武道家などと同じに見ている。破天荒な人だが、そういうところのある人でなければ、「自然」を相手の達人にはなれないのだろう。「そのような人を生かすシステムが日本にはない」と、養老さん。「自然と会話の出来る達人」と考えていたら、若原さんがいつもより輝いて見えたのは気のせいか。

 前のBlogでは、送受信機としての人間の能力について述べました。人間の通信能力性能の判断は、エンジニアとして考えさせられるものがあります。単に工学的に考えると、電話のような音声とマルチメディアのような画像を送るのでは千倍もの性能差があることになります。とくに動画を送るのはたいへんなのです。ケータイのように電波を使うツールの場合、その条件はいっそう厳しくなります。当然コストにも跳ね返えります。
 そこで、まず、人間の送受信能力を強化したり、拡大したりするという立場から、ケータイを考えてみましょう。音声については、多くの人が取り上げているように、電話によるコミュニケーションの原点にあります。遠隔地との通信は、まさに聴覚の拡張です。視覚については、画像通信や、インターネットにより、最近その機能が大幅に拡大しています。テレビ電話や写真付きメールは、音声における聴覚の拡張と同様視覚の拡張として捉えることが出来ます。陰に隠れて見えないものを見せることも視覚の拡張(第6章参照)といえるでしょう。触覚は、着信音の代わりにバイブレータを使うことが一般化しており、既に使われているともいえるのですが、通信機能を使った新しい可能性もありそうです。以前学生が、「引っ張る電話」というのを考えたことがあります。電話線を引っ張ると相手側の電話線が引っ張られるというものです。恋人同士が、手を握り合っているシーンの遠隔化です。ケータイなら、ケータイを握りしめると、相手のケータイに伝送され、バイブレータを振動させたり、ケータイの形状が変わって相手にその感じが伝わるということができるかもしれません。
本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p35に収録

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6月に養老孟司さんにくっついてラオスに虫採りに行った。詳細は、養老さんのBlogに書いてあるので、私は、感想を少し。
ラオスは、私たちの年代の子供の頃を思い出させてくれるようなところだと聞いていた。農業が主産業であることと、まだ、開発途上で貧しいことがその背景にある。
行ってみると確かにそんな感じのする場所が多いが、一方で、山岳地帯では、雄大な風景が展開して、観光地としての可能性の高さを感じた。貧しさから抜け出す手段としてこれまでの「工業化」という手段ではなく、「自然」を武器にした異なった戦略があると思うのだが。
戦後の日本といっても、周りの状況は、大きく異なっている。そのことが、所々に現れる。高地に行くと山岳民族多く住んでいる。その村は、尾根を走る国道にへばりつくように細長い家並みになっている。高床式の家が多い。子供が多いのが目につく。ほとんどが裸足である。そんなところに、衛星のアンテナがある。それも、一軒や二軒ではない。聞けば、主にタイの放送を見るのだという。我々の子供の頃だって、ラジオはあった。小学校の高学年の時代には、テレビジョンも入ってきたが、一般家庭では高嶺の花で、喫茶店に集まって、力道山の試合を見たものだ。つまり、テレビジョンは、ハードウェアとしても、コンテンツ(番組)としても徐々に浸透していったのだと思うのだ。それに対して、この国の、テレビジョンは、いきなり最新の番組が飛び込んでくる。映像に力は、強烈だ。裸足の子供たちにどんな影響があるのだろうか。良い面もひずみとなる部分もあるであろう。テレビジョン番組の社会的責任の大きさを実感した。

 最近、世界でさまざまな紛争が起きています。その内容をみてみると「聖地という場所」をはじめ、民族や宗教にとって「特別な場所」をめぐる争いが多いことに気づきます。特別な場所とは、リアルな場所に特別な意味が付帯していることを意味します。これを「場」という言葉をつかって、「聖地という場所」や「特別な場所」には、人々を引きつける「場の力」があるのだということができます。
 生物は「ニッチを探して進化する」といいます。自然の摂理に基づく厳しい生存競争の中で、生物は、自分の生きる場所を探すのです。彼らには子孫を残すのに適した場所を見つける能力があるのかもしれません。これを生物は、目に見えない(見えているのかもしれないが、人間にはわからない)「場」情報を受信し、解読する能力があるという表現を使って表すことができます。
 一方、「脳」を有する人間は、リアルな場所に特別な意味を付加します。これは人類にとって特別のことではありません。恋人と別れた場所、結婚を申し込んだ場所など、どんな人でも、特別な感情を持っている場所があるものです。特に自分が生まれ育った土地は、いわばその人の人間形成の場所でもあったわけで、意識・無意識の如何を問わず、各人にとって特別な場所になっているということができるでしょう。そこは各個人にとって、「場の力」を感じる「場所」だということができます。そして場所に民族や宗教が関係してくると、「場所」の存在が共通意識として根付き、「場の力」が増大・定着するのだと考えられます。その典型的な例が、「聖地という場所」や戦争等の理由により、ふるさとや国を追われた難民にとっての「故郷という場所」なのでしょう。

ここで、本文における「場所」と「場」の関係を定義しておきます。私は、ワイヤレスシステムの研究者なので、「場(field)」という言葉にはなじみがあります。電磁気学でいう「電場」「磁場」です。電波の発生の原理にはなくてならぬ理論である電磁気学には、学生時代泣かされたものです。砂鉄をばらまいて磁石を近づけるときれいな模様ができることにより、磁場を可視化する理科の実験は誰もがいちどは経験したでしょう。また、重力の存在を「重力場」という言葉で説明することを知っている方も多いと思います。広辞苑によれば、場とは「空間の各点ごとに物理量Aが与えられている時、Aの場が存在するといい、Aを場の量という。力の場、速度の場、電磁場、重力場の類。」とあります。このように、「場」とは、目は見えないが空間を覆っている力というようなものを表す言葉であることがわかります。特別な人を「あの人はオーラを発している」という言葉で表すことがあります。これは、その人の周りには、他人に何かを感じさせる強い「場の力」が発生しているのだということができます。一方「場所」の定義はとても難しいのですが、ここでは単純にリアルな物理的位置・空間を意味することにします。なお、「場」は目に見えない広がりをもった概念であるため、完全にバーチャルなネットワーク空間での知識創造/共有などを表す言葉にも拡張して、使用されていますが、本文では、リアルな場所や人、物体に結合し、その周辺に生ずる「場」に限定して使用します。

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虫好きを分類していくと、奇妙なことに気付く。蝶好きは「蝶屋」だが、甲虫好きは、「カミキリ屋」、「オサ屋」、「クワガタ屋」というように、より細かく分類されているのである。つまり、甲虫屋はカミキリムシ科、オサムシ科、クワガタムシ科というように主として科別に興味の対象が分類されるのに対し、蝶屋ではギフチョウなど特定の種に強い興味を持つ人はいるものの、一般的にはアゲハチョウ科・シロチョウ科というような科別の嗜好の傾向は少なく、蝶全般に興味の対象が広がっている人が多い。その理由として科毎の個性の違いが甲虫の方が大きいという考えもあろうが、実はもっと単純な理由なのではないかと思っている。
甲虫は昆虫の中でも最も成功を収めたグループである。日本の蝶は二百数十種なのに対し、甲虫は記載されているだけで約九千種いる。つまり、甲虫はやたらに種類が多い。種類が多すぎると個人では扱いきれない。「日本全種を採集する」とか「生態を理解する」とかの目標を設定するには、個人にとっては数百種というのがよいところのようなのである。面白いことに、この目標設定の基準となる種類数には下限もありそうである。少なくとも数十種はいないと、コレクションという感じがしないし、人に自慢もできそうもないではないか。つまり、虫屋という生物の分化の原因は生物学的要素というよりは、個人が扱える種類数という人間側の事情によるようなのである。
そういえば、そもそも種という概念にも人間側の事情が反映しているという人もいる。池田清彦は分類学というのは、客観性を持った科学というよりは、言葉という人類の道具による文化活動という面があるという。確かに、名前を付けると、とたんに対象物が明確に区別できるようになるというのは、よく経験することである。そして人類が種という単位を好んで用いるのは、この概念が人間にとって感覚的に理解しやすいからだ、とクロード・レヴィ=ストロースはいう。つまり、人間が自然の中からある概念を取り出すには、網(分類学では網・目・科・属・種というように段階的な分類法をとる。網はたとえば昆虫という単位である)では少なすぎるし、個体では多すぎる。その中間にある種という統合の概念が、人間の脳の多様性判断機能にちょうど整合しているというのである。
 さて、聖地に付加された情報が重要なら、それを移動すれば「聖地が移動」することも夢ではありません。現にチューリンガには携帯可能な聖地としての機能があります。ところが、中沢新一も「聖地は移動しない」といいます。「聖地という場所は、この世の中にある空間でありながらこの世の空間でないような、一種の特異点みたいなものです。だから、聖地と呼ばれる所に入っていくと、ちょうど『ふしぎな国のアリス』みたいに、時間や空間などの感覚が今までの世界とはちょっと違った状況になってきます。・・[1]」というのです。始めに述べた「聖地の定義」のうちの「場所が特別」という要素も重要だというのです。
 このように、「聖地を移動」させるのは、容易なことではないようです。聖地を移動させたいのなら、「移動してきた聖地が自分のそばにあるような感じ」を実現するというのが目標になりそうです。そのためには、聖地を特別な場所にしている「場」の情報の獲得と、人間が感じたり理解したりできる形式での出力方法の開発が課題といえるでしょう。
 二つの聖地の定義は、「自然な場所の情報」と「人が付加し記号化された場所の情報」という二つの要素が、「場所」にあることを示しています。そしてそれは、「場所」に関する情報の一般解として拡張できると思うのです。
参考文献:
1:伊藤俊治/湊千尋監修、「移動する聖地」、NTT出版、1999,151頁

hanmyou.gif いわゆる虫好きがいる。普通の人から見れば変人と思うかもしれないが、普段はいたってまともな人たちである。以前は変人と思われるのがいやで世を忍ぶ仮の姿を決め込んでいた人もいたが、最近の自然ブームで社会的地位が認められ出したこともあり、本性をあらわした人が多い。 私は「蝶屋」である。虫の中でも蝶にしか興味のない人種をこう呼ぶ。蝶の生態写真を40年近く撮り続けており、著書もある。 ハンミョウは、ハイキングでもすればよく出会う甲虫であり、蝶ではない。実は小生、最近甲虫のおもしろさにとりつかれて困っている。蝶屋と甲虫屋は全く世界が違う。甲虫屋の中でも興味の対象によりオサ屋、カミキリ屋、クワガタ屋などに分類され、それぞれ独自の集団をつくっている。それがどうしたといわれそうだが、そんな時には「それが文化だ」という答えを用意してある。 人はそれぞれいろいろなものに自分固有のイメージを持つ。虫屋は自分の興味のある昆虫(蝶屋は全ての蝶に、カミキリ屋は全てのカミキリ)に自分のイメージを持っている。客観的に見ればおかしいこともあるだろうが、本人にとってはそれでよい。それが楽しい。それが個人の文化というものだろう。 エドワード・ホールは「文化が形成されると、コミュニケーションは言葉だけでなく、時間の処理の仕方・空間的感覚・仕事や遊び等に対する態度などの沈黙の言葉を規定する」という。この沈黙の言葉を理解し合えるのが、真の友人なのだ。わからない奴はほっとけばよい。虫屋は負け惜しみも含めてこうつぶやく。私は、甲虫屋の中では新参で、蝶屋の中では変節者ということになる。つまり、異文化の集団に飛び込んだことになる。今更新参というのもいやなのだけれど、おもしろいものはおもしろいのだから仕方がない。
 人間を通信の受信機と考え、工学的に評価すると、視覚が最も優れています。可視光の帯域は一〇〇〇兆ヘルツ、一方、聴覚はわずか四〇〇〇ヘルツです。他の感覚の評価はなかなか難しいのですが、視覚にはかなわないと思われます。人間は、大部分の情報を視覚から獲得するというのもわかる気がします。
 ところが、送信機としての性能は音声の方が優れています。「目は口ほどにものをいう」という言葉は、使い方また状況によっては、目は口と同等の送信機能をもつことがあることをいっているのでしょう。それは、音声の優位さを認識している言葉ともいえます。音声は言葉という形で記号化されたのですが、動作の記号化は発達しなかったのです。それに換るものが文字だとすれば納得がいきます。
 確かに、文字による通信の効率(情報量/伝送容量)は極めて高いのです。ただしこの場合、人間の送信性能が十分でなくリアルタイム性が落ちます。電信、タイプライター、ワードプロセッサなどの特別の訓練を受けた人は、言葉と同じように使いこなしますが一般的ではありません。パソコン通信や電子メールが一般的になり、文字を書くように誰もがキーボードを自由に扱える日が来るのでしょうか。親指がさらに動作を速くして、ケータイメールを送信するのでしょうか。それとも音声認識が進歩して一般的に利用されるようになるのでしょうか。 
 動物には、この他、臭い付けでテリトリーを誇示したり、臭気ガスで防御したりするものがいますが、人間には、音声と動作の他の送信能力はないように思います。

本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p34に収録

1998年4月、NTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で、「移動する聖地 -- テレプレゼンスワールド --」展が開かれました。そのねらいは、「遠隔操作技術と仮想環境技術を人間の原始的な想像力や記憶、野生性と結びつけ、来るべき時代のヴィジョンを導き出す[1]」ことにありました。テレプレゼンスについては、別の機会に詳しく述べるとして、ここでは「聖地は移動するか?」ということを課題に考えてみたいと思います。

 聖地は1センチたりとも移動しない[2]そうです。聖地の多くには、象徴となる「石」がある[3]といいます。それが、移動しないことの支えになっているというのです。確かにそのようなことはいえるかもしれませんが、別の見方もできるのではないでしょうか。石が動かないのではなくて、石に付加された情報が動かないのではないかと思うのです。養老孟司は、「身体は日々変化するが、情報は変わらない。日々変わる生き物の世界の中で、変化しないものが情報なのだ・・・流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。」[4]といいます。自然は変化します。石の位置だって変わったかもしれません。まして建造物は原形をとどめない場合もあるでしょう。しかし、情報化されたその場所の意味は変わらないのです。ものの中に記憶を固定する営みは、人類が日常的に行っていることなのです。神聖な意味が付加される対象物は、特別なものでなくても良いようです。聖地を訪れ何の変哲もないご神体に出会うことは良くありますし、オーストラリアのアポリジニがもちいる護符であるチューリンガにおいても単なる木片や石で、何も加工されていない場合もあるそうです[5]。そこに意味が付加され、多くの人の記憶の中に残されることが重要なのです。

参考文献:
1:伊藤俊治/湊千尋監修、「移動する聖地」、NTT出版、1999,はじめに

2:植島啓司「聖地の想像力」集英社新書37、2000,5頁

3:同、33頁

4:養老孟司、「バカの壁」、新潮社、2003、54頁

5:クロード・レヴィ=ストロース、「野生の思考」、大橋保夫訳、みすず書房、1976,286頁





養老さんの虫サイト 
を見ていたら、むずむずしてきて、私も日記風のことを書いてみたくなった。
といっても、さて、どこまで続くやら。日記ならぬ、週記?になりそう。
まあ、無理をしないでゆるりと参ろう。
  以前コマーシャルに「そうか、人間がマルチメディアなんだ」というコピーがありました。たしかにマルチメディアの代表は人間です。言葉という複雑な記号を瞬時に処理し、入出力します。高感度で広帯域な受信感度を誇る視覚ももっています。
  人間には五感(視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚)があります。これらはいわば受信機です。ケータイをはじめとするIT機器の役割は、これらの機能を拡張したり、補助したり、新しい機能を付加したりすることだと考えられます。目と耳の性能の違いについて、多様性の認知は視覚、筋書きの理解は聴覚だと養老孟司はいいます[1]。このことを別の言葉でいえば、目は空間を認知し、耳は時間を認知しやすいようにできているということでしょう。私は、五感は人間と環境とのインターフェイスと考えています。五感の主要な役割に、危機管理があります。聴覚は、常に電源の入った検出器といえるでしょう。耳には、目蓋(耳蓋?)がありません。外界に対して常に開かれた窓となっています。聴覚では、方向を明定しにくいのも、全方向に向かってアンテナが開いているからだということができます。これに対して、視覚は、対象物を詳細に観察するのに適しています。方向性もあります。生物の感覚は、環境の情報をとるためのものだと考えられます。その中でも、身の安全を守るセキュリティに関する情報は最も重要なものでしょう。まず、聴覚で一次情報を取得し、視覚で詳細を確かめるという役割分担をしていると考えたらどうでしょう(もっとも、人間以外の生物では、嗅覚が重要な役割を果たしていますし、鳥は地磁気を感じるといいます。人間と比べて、視覚・聴覚に頼る割合は低いかもしれません)。嗅覚は、人類にとっては、それほど大きな役割を果たしていません。危機管理から見れば、、聴覚の補助手段といったところです。使用シーンとしては、今のところ、食料に対するもののほかは、料理時の焦げたにおい、ガス漏れなどが頭に浮かびます。味覚は、体内に入れるものの危険性に対する判断といったところでしょうか。触覚は、物理的な直接接触が基本ですが、暑さ、涼しさ、寒さなどは、空気や電磁波を媒体としています。
参考文献
 1:[養老孟司「脳が読む」、法蔵社、1994]p137に以下の記述がある。
 脳でいえば、筋善きは「耳のもの」であり、多様性の認知は「目のもの」である。「絵解き」というくらいで、目には本来、筋書きはない。絵に筋書きがあれば、絵解きはもともと不要なのである。生まれつき耳の間こえない人たち、こうした人たちが、もっとも難渋することはなにか。それは因果関係の理解である。あるいは、疑問文という形式の理解である。

 本文は、ケータイ進化論(NTT出版)p32に収録

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多くの人々が場の力を感じる特別な場所として聖地があります。それでは、「聖地」とはどのような場所なのでしょうか。世界宗教大辞典(平凡社)によると、「信仰または伝承によって神聖視される一定の地域といい、崇拝・巡拝の対象とされるとともに、みだりに出入りすることのできない禁忌の場所でもある。聖地は大きく分けて(1)山、森、林、岩、川、樹木、泉、湖、井戸などの自然景観に関わる場所、および、(2)聖者や聖人、修行者や英雄にゆかりのある霊地、本山、墓所、という二種類の系列が考えられる。とはいっても実際は(1)の自然景観と(2)の霊地における諸建造物とが一体となって聖地空間を形成している場合が多い。[1]」とあります。これを本文の立場から解釈すれば「信仰または伝承によって特別な意味が付加され、それを多くの人々が認識している場所」ということができるでしょう。 ここで問題となるのは、世界宗教大辞典の解釈に現れる二種類の場所です。その場所が「特別」なのか、意味が付加されたことによって「特別」になったのかという問題です。上記説明のように、この二つは一体化されていることが多いので、現実には問題にならないことが多いのです。しかし、本文では「場所の未来」として、ケータイなどのメディアを使って、場所の情報を獲得する手助けをすることを目指しています。このため、本来その場所に存在していた自然情報が重要なのか、後で人間が付加した情報がより重要なのかの判断により、扱う情報はもとより、そこに投入すべき技術が全く異なる可能性があるのです。
 参考文献 
1:山折哲雄監修「世界宗教大辞典」、平凡社、1991,1085頁
 写真は、ミヤンマーのチャイティーヨパゴダ(ミヤンマー大使館HPより)
H-N1.gif 定年で大学を退職、少し時間が自由になったので、山歩きを再開している。虫採りと生態写真撮影が目的である。 10年以上行っていない秘蔵の場所を訪れてみると、驚くことばかりであった。
1:宅地化してしまっていた
2:観光地化して、大勢の中高年の人たちがやってくるようになった
3:荒れ果てて、道がなくなっていた
 宅地化はある程度予想されていたが、別荘地となっているところが多かった。観光地化は予想以上に進んでいた。大菩薩峠などは、登山者用の観光バスが並んでいた。 荒れ果ててしまったところもあった。ミヤマシロチョウが沢山いた八ヶ岳の秘蔵の場所への道がなくなっていた。無理矢理たどり着いたら、環境が変わっており、ミヤマシロチョウはいなかった。仕方なく、帰路についたが、道に迷い危うく遭難しそうになった。 
そんな経験から、「自然環境と人間の活動範囲の分離の傾向が進んでいるのではないか」と感じている。写真は、湯ノ沢峠の花畑である。道には、ローブが張ってあり、「違反者を見つけたら通報するように」という看板まであった。登山者の急増の現状では、このような規制はやむを得ない部分もある。が、日本国中が、「植物園」「動物園」化しているように思う。「自然」は、眺めるものになっており、自然の一員となって遊ぶ要素が少なくなっている。そして、登山者たちは、虫採りにも厳しい。「自然破壊」と映るらしい。採集禁止のところも増えた。日本の虫採りの肩身はどんどん狭くなっている。
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アカガネサルハムシは1センチたらずの小さなハムシである。このような虫が歩いていても気づく人は少ないし、気づいたとしても、小さな虫がいると思うだけだろう。 しかし、アカガネサルハムシを虫眼鏡や顕微鏡で見てみれば、そこには小さな宇宙ともいえる世界のあることがわかる。先ず見えてくるのは触覚・眼・翅・脚である。眼に焦点を当て、これを拡大してみよう。そこには複眼の秩序だった構造が見えてくる。このように倍率を変えるにつれて、次々に新しい構造が見えて果てしがなく、またどの段層も美しい。
ハムシの写真を撮ってみよう。人間の眼には虫眼鏡や顕微鏡で見たのと同じハムシの姿が見える。しかし、その写真を拡大すればその違いはすぐわかる。自然物であるハムシは消え、写真の粒子や印刷の網目が見えるだけである。では何が失われたのか。人間の眼の特性を利用して、実物のハムシがいるように見せる仕掛け、広い意味のソフトが失われたと考えることができる。このように、人工物には上位の階層がない、無限がないともいえる。
デジタル写真は人工の細胞を生成する。写真からソフトが失われる単位、すなわちハムシの姿が写真の粒子に変わる大きさを作者が規定できる。その人工細胞を合成して写真の全体像を作り上げるのである。
小さなハムシの拡大写真を撮ってみよう。通常の方法では、ハムシの体の一部にしかピントをあわせることができず、他の部分はぼけてしまう。そこで、体の各部毎にピントを合わせた撮影を繰り返す。その中からピントのあった部分だけをコンピュータに取り込み、合成するのである。その際どの程度のピントのずれまでを許容するか。その尺度で、デジタルフォトコラージュの人工細胞の大きさが決まる・この作品は、36枚の写真のピントのあった部分を合成したものである。